生死を決めるのは運命?自分?
最近、「死」について考える機会が多いので思うまま書いてみます。
(うまく書ける気が全然しませんが、何となく伝われば嬉しいです)
「命は大切だ」「死は誰しも逃れることができない」etc という言葉は
子どもの頃からよく聞きますが、じゃあ具体的に自分の経験からそれらを感じたのは
いつ?と誰かに聞かれたら、私なら……といった観点から述べます。
確か、中3の頃、高校受験のために、地域の高校で外部業者の公開模擬試験を受けていた時でした。
なんと国語の文学的文章(小説)を読み終えた時、
涙で視界がボヤけて問題文まで読めなくなったんですね。
嘘みたいな本当の話で、
(試験の結果は忘れましたが)、これより先、国語のテスト問題で泣いたことはないです。
テスト問題の文章としては、
避けがちな「少女の自殺前夜」を扱ったものでした。
学校から帰って夕飯を食べた後、自分の部屋で少女は、今夜死ぬことを決意します。
いじめ、人間関係の悩みといったものから、解放されたくて少女は自殺を選びました。
数時間後と決意を固めている時、突然、台所から母と妹の温かい会話が聞こえます。
それは、最近元気のない少女のために、お菓子を作ろうといったものでした。
途端に少女は「私が明日死んでたら、家族はどう思うだろう」と思い、
「人間は生まれた時から、
「死を選べない」という見えない足かせが付いている」
(人は1人では生きられない、生きることは何か心残りを作ってしまう といったことを言ってるのかなーと私は解釈してました)
と悟り、自殺を思いとどまり号泣するのでした。
かなり古い記憶なので、曖昧なところが多いです。
一度ちゃんと読みたいと思って、作品のタイトルを覚えている頃に本を探したこともありました。でも未だに見つけられないという迷宮入りのお話 笑です。
長くなりましたが、なんでそんなに感動したのかというと、多分
私も少女の気持ちと似たような経験があったからです。
小学校の頃に私のクラスが学級崩壊していて、毎日、自分も含め誰かがいじめられて。授業も先生が1人で喋ってクラス中遊び回って。大人も誰も先生を助けない。
きっと先生も含めクラス中が傷ついているのに、学校を休むことはし(でき)ない。
学校を休むという選択肢はない(当時「不登校」という考えを知らなかった)。
ある日、私は家に帰って、
「生きていても仕方ない」「私なんて必要とされていない」と思い、
決して逃げることのできない日常から逃げる方法は「死」だと考えました。
そして、もし死んだら家族は?友達は? とも考えました。
死んでからのことなんて考えたって仕方ないことなのに。
一瞬、思考停止しましたが、生きています。
中3の試験の時は、そういったことを思い出して悲しくなったんでしょうね。
もし、小学校の時、学校に行かないという選択肢を選んでいたら、
勇気を持って「生」を選んだということになるのでしょうか。
私は、あの頃、学校に行くことが「生」、行かないことが「死」だと考えていました。
今は、どちらも「生」だと思います。
どんな選択をしても、見えない足かせがある。
でも生死を決めるのは運命というのか自分というのか。
他人が決めるのは違うのではないかなと思います。